1945年8月6日、普通の家族のくらしが大きく変わってしまいました。その苦しみ、悲しみは今も続いています。その日、14歳だった松本 正さんのお話です。
当時私は14歳。学徒勤労動員として広島で兵器を造る工場で働いていました。仲の良かった弟は中学1年生。学徒勤労動員として、授業はなく農家の手伝いや家屋疎開の片付けの毎日を送っていました。
8月6日、警戒警報も解除され、きれいに晴れ上がった青空に米軍機がいるなんて思いもしませんでした。砂利を積んだ天秤棒を担ぎかけた途端に「ズン」という衝撃。「これは音じゃない」。腹に響く衝撃とともに、周りは青白い光に包まれました。市内の方向に目を向けると、太陽が二つ燃えていました。言葉にできない恐怖を感じ、防空壕に飛び込み外を見ると、働いていた工場は鉄骨だけになり、周りにはガラス破片で血だらけの工員らの姿。自分はけが一つしていませんでした。
市中から来る大勢の人々は、鉄も溶ける高温に、服は燃えて裸同然となり、肩からの皮膚がずるっとむけています。私は火をかいくぐり必死に歩きました。瀕死の重傷者たちから「水、水」と声をかけられましたが、「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝るしかありません。「お前たち、なんで無傷なんじゃ」と白い目で見られました。うめき声を聞き、血の臭いを嗅ぎながら、必死の思いで母の待つ家に逃げ帰ったのです。
弟は7日の深夜、救護所となっていた寺で見つかりましたが、息を引き取った後でした。亡くなる直前まで「お兄ちゃんが助けに来てくれる」と言っていたそうです。

命ある限り原爆の語り部を
私は長年、被爆者運動に携わっていながら、原爆の証言を長い間断ってきました。それは、けが一つせず誰も助けずに逃げ回った「ずるい被爆者」で、語る資格がないと思っていたからです。長い間、犠牲者たちに申し訳ないという気持ちを持ち続けていましたが、10年前、思いを振り切って語り始めました。私は生きている被爆者の使命として、「ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモア核兵器」と叫び、命ある限り証言を続けます。

松本 正さん
ノーベル平和賞受賞 日本被団協所属
横浜市原爆被災者の会(浜友の会)元事務局長
※2025年3月に横浜市で開催された「核なき世界をめざして」での被爆証言を再構成しました。
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ゴハンのもと編集部